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小野寺 氏 からの紀行文 送信日時: 2012年12月14日金曜日 23:34 和賀岳山頂からの夕陽と鳥海山 (暇なときに読んで…)10月26日4:30に目が覚めてしまい、ベッドの中でまんじりともせず、いつしか今日は滅多にないくらいの好天なのに何かすることないかなあと考えていたとき、突然「山に登れ」と言う考えがヒラメキのように浮かんできた。 今日と明日は東北全域好天で風も穏やかなことは昨日のうちに調べはついている。 今日(26日)はパラの特訓日だったのだが、コーチの都合で中止になったからだ。 このポッカリ空いた好天の一日をなにもしないではいられない。パラと同じくらい充実したなにかをしなければなんか損をするみたいな感覚になっていた。 すぐパソコンで西和賀町と秋田県大仙市の天気予報を調べる。…だ。風もない。ただ濃霧とある。濃霧だったら途中で引き返せばいい。 念のため和賀岳と真昼岳の二つの登山コースを想定して地図をコピーする。このときはまだどちらにするか決めかねていた。沢内の天気次第で決めようと思った。 急いで山道具を点検し、ヘッドランプ、カッパとダウンジャケットと股引など、万が一の雨と防寒対策だけを注意し、あとは替えの下着とスポーツ飲料の粉末、コンパクトカメラ、ローザの明日の分のドッグフードとおやつ、それに熊除けの鈴を持つ。水は山の水場で調達する。登山口までの車中は水筒でよし。オレのオニギリとおやつは途中コンビニで買えばいい。 明日は水沢でパラグライダーだからその道具も持って行く。 犬と猫に餌をやり軽く犬の散歩をしてトイレだけはすませておく。 夕べの残り物のシチューで朝飯をすませ、愛犬のローザと同行二人で車上の人となる。忘れ物があってもどったりと最終的には8:20の出発となる。 ナビを沢内バーデンにセットし、濃紺の四輪駆動バンで一路沢内村へ。エンジンも快調。岩手県に入ったあたりから霧がところどころで道を見えにくくする。 パラの時いつも見ている藤橋で北上川を渡り水沢インターを目指す頃は更に濃い北上川の川霧が一面に覆っている。チラッと山も霧かな?っと不安が過ぎる。そんなこんなに気を取られコンビニに立ち寄るのを忘れる。この時この先弁当を買うところのないことに気づこう筈がなかった。 東北自動車道を北上し、北上インターの手前で秋田自動車道に入る。 ところどころ紅葉の綺麗なところも見受けられる。 奥羽山脈の下の長い和賀仙人トンネルをくぐり抜ける。この上に和賀仙人峠がある。
かって無医村で老人死亡率がとても高く乳児死亡率が全国一位だった沢内村を冬季、他の世界と隔絶させてきたのがこの和賀仙人峠だ。 昭和35年、沢内村村長深澤まさおは敢然とその現実に立ち向かった。老人死亡率は急激に下がり乳児死亡率に至ってはゼロになった。全国で初めて老人医療費無料、乳児医療費無料を成し遂げた村政の成果であった。又その医療のためにも、村の経済のためにも雪に孤絶させられた村からの脱却に取り組んだ。深澤にとって冬季の車での和賀仙人峠越えは夢であった。深澤は貧乏村費を工面して秋田県の湯沢に向けて除雪のブルドーザーを動かせた。更には盛岡に向かっての道にも取り組んだ。現在の県道1号線の1号線たる由縁であろう。深澤は現職の時、病に倒れ、死して車で雪の和賀仙人峠を越えて沢内村に帰って来た。何よりも命の大切さを村政の場で実現した人であった。今の政治家のなんとポリシーのかけらも哲学の匂いもないことか! 話が横道にそれた。 その和賀仙人峠の下を時速100㎞で疾走する。 さらに峠山トンネルを抜けるとまもなく錦秋湖サービスエリアがある。この錦秋湖はこれから行く和賀山塊の緑のダムからゆっくりと染み出てくる雨水を集めて流れる和賀川のダム湖である。「錦の秋の湖」と呼ばれるからにはよほど紅葉…のキレイな所に違いないが温泉や栗園など広いスペースを持つサービスエリアである。 紅葉はどうだろうと気になったが時間がない、帰りにしようと立ち寄らずに、湯田インターまで突っ切る。湯田インターをおりて、あとは県道1号線をナビを無視してまっすぐ走ればいい。 いつからか真っ青なぬけるような空に変わっていた。頭の中もいつの間にか和賀岳一本に絞られてしまっていた。 フとここでオニギリ買いを思い出した。 コンビニ、コンビニ、…っと。 ない、ナイ、無い……… こりゃ大変…方針ヘンコー!!口にはいるものならなんでもいい! あった!「産直の店」 「オニギリはありますかあ?」「おいどぐごどもあんだげっど今日はねぇのっさぁ~」「ほんでぇ、はらさたまるもんならなんでもいいんだげっどなぬがねぇすかぁ~?」「くさだいふぐならあるぞい?」 そんなやりとりの後、草餅でできた大福を3ヶ、かりんとう3枚入れ一袋、ビスケットの天ぷら2個入れと3個入れを一パックずつ買い込んだ。これで夜までの食料は準備できた。和賀岳の登山道入り口を聞いて店を後にした。 店から8分くらいで「和賀岳、高下岳登山道入口」という少しくすんだ色の思ったより大きな看板が左側にあった。 20㍍ぐらい通り越してバックして確認した。 そのわき道に入ってすぐ、なにかしら小さな文字でお知らせが書いてあった。 林道工事のため高下登山口の手前2㎞(徒歩30分)より車の進入禁止。登山者は手前の駐車場に停めること。 ウワッ!往復1時間のロスだなぁ~しばらくは杉林やこなら、もみじなど落葉樹のあいだを縫って走るといつの間にか谷川に沿って走っていた。後で知ったことだがこれが高下川だった。 この辺りで麓からは最後の和賀岳が綺麗に見えた。 約6㎞緩い坂道を川にそって走ると通行止めのパイプの柵の手前右側に駐車スペースがあった。 車をそこに置き、いよいよ、歩きの始まりだ. ローザを助手席から下ろし、バックパックを背負う。首輪なし、リードなしでローザもはしゃいでいる。 そこからは急に道が悪路になった。ダンプカーがなんども走り舗装されていない林道は轍のクッキリ残るシロカキされた田んぼのようだった。登山靴は泥にまみれ、ローザは腹から尻尾まで泥だらけだ。2㎞ほど登った辺り、登山口を目の前にして大きな土砂崩れがあったらしく林道が崩落して右側の谷川に崩れ落ちている。ここの工事か、と察しがついた。現場は崩れた土砂を取り除き、更にほとんど垂直に削り取ってあり、5㍍程の急な階段が取り付けられてはいた。 これは困った!ローザが登れない!いろいろ試してみたが、急な山肌にしがみつきながら山の中を迂回するしかなかった。 なんとかそこをクリアーしたら、すぐに標高530㍍の高下登山口だった。時計の針はすでに11:45をさしていた。入山者ノートに記入して一路和賀岳へ。今日の入山者は我々だけだ。昨日も一人、一昨日は3人で和賀川渡渉点で一泊キャンプの予定とある。 杉林のややきつい登山道をひたすら登る。いつの間にか右も左もブナの森に変わり30分ほどで標高約740㍍の尾根道にでる。入り口付近は巨木はないがこの辺に来ると巨樹にも出会う。薪炭材として利用されたブナだが伐採を免れたのだろう。 ブナは「木」偏に「無」と書き「無用の木」とされてきた。 しかし、今日、ブナとブナの森はその大量の落ち葉の堆積によって豊かな森を育み、木の実は月の輪熊の生息できる環境を作り上げている。当然、他のホンドモモンガやムササビ、ヤマネ、リス、木鼠、カモシカやオコジョ、テン、ノウサギ、キツネ、タヌキなどのけものやクマゲラなど珍しい鳥などの動物、高山蝶のベニヒカゲ、和賀川の源流では生きた化石といわれるトワダカワゲラの成虫も発見されている。カワゲラの仲間は成虫になると羽が生えるが、この種には羽が生えない。また、世界最小といわれるハッチョウトンボなど珍しい昆虫も見つかっている。豊かな手付かずの森には厳しい寒さや深い雪に耐えたこの地の植生がある。 ローザが先頭に立つ。2回目の和賀岳と言うことを覚えているのか、元気に登って行く。急な山道は人一人通れる程の幅しかない。疲れた、と思っても坂道は延々と続く。見晴らしの利く場所はない。目に入るものは未だ青々と茂った樹木と葉を透かして届く柔らかい木漏れ日だけだ。12:48漸く右側に少し眺望のきくところを通った。今登ってきた山の対岸の山の紅葉が見える。登り始めて初めて見えた遠景である。 この辺から少しずつ薄緑のブナの葉が黄色味を帯びてくる。 13:23標高820㍍の高下分岐に到着。右に行けば高下岳、左に行けば和賀岳。 勿論まっすぐ和賀岳へ。 少しの間「牛のくびと」と沢内マダギに呼ばれる、山腹を横切る比較的なだらかな道をホッとした気持ちで歩くと間もなくピンクのビニールテープに「水」と書いてある。左に10㍍くらい下ると山肌に塩ビの水道管が差し込んであり、先っちょから程よい量の美味しい地下水がながれている。涸れることのない水場である。ここで喉を潤し、スポーツ飲料の粉末を入れてある給水嚢に1㍑強の水を入れてバックパックに収める。 和賀岳は水場があるので助かる。 更に木漏れ日の登山道を進むといよいよ急な下り道に入る。だんだんにそれは道なのか水路なのか判らない程えぐり取られている。夕べ和賀地方は雨が降っているので、雨水がここを走ったであろう。場所によっては1間ほども深く抉られている。そのような道は抉られていない縁のほうを木や笹に掴まりながら注意して下る。滑る。なんども尻餅をつきながら約200㍍の落差を和賀川徒渉点まで下りねばならない。漸く、谷川の水音が聞こえてきて、もうすぐだと思いきやなかなか着かない。風がないので遠く谷川の水音まで良く聞こえる。 14:11漸く、ようやく、ヨウヤク!和賀川徒渉点に着く。夕べの雨にも拘わらず水量はほとんど増えていない。30~40㍍上流の踝の上辺りの深さの所を靴を履いたままで渡った。巧いこと靴に水は入らずに済んだ。この川には大きなイワナが沢山いるという。ある人は岩の下に手を突っ込んで手掴みするそうだ。渓流釣りもいい。 川を渡ったところにキャンプができるスペースがある。夏にテントを張ってイワナ釣りをしながら渓流登りをしてキャンプを楽しむのも魅力的だ。 余りゆっくりしている余裕はない。またまた急な斜面を一歩一歩よじ登る。本当に和賀岳は深い。私の人生のような山だ。
この歌を何度歌ったことか! 和賀川を渡るといよいよ森は深くなる。登山道以外は全くの手付かずだ。クマが出てこなければいいな!とバックパックにぶら下げた鈴の音に耳を傾ける。ブナはふところ深く森を抱き山肌を温める。巨木が空を覆う。 14:34落陽広葉樹のブナの葉はすっかり黄色く変わっている。ひーこら言いながらも大分高度も高くなってきたことを感じる。道は要所要所にピンクのビニールヒモが木の枝に結びつけられており、道に迷いそうな不安を覚える箇所は一カ所もなかった。流石に山守りさんは的確に道案内をしてくれている。Good job! 15:29ブナの中にダケカンバが曲がりくねった白い枝や幹を現し始めた。葉は既に散ってしまっている。 更に登って行くと一瞬見晴らしの良い所に出た。高下分岐から和賀川渡渉点に向かって下って来た対岸の山が夕陽に染まって赤く燃えていた。中でもひときわ真っ赤に見えるのはうるしだろうか、それともカエデだろうか、否、あれはナナカマドに違いない! 時計は15:43だ。 ブナにダケカンバが混じりだすとこのキツい登りの中間くらいか。 (メール文字数一万字残りなし…続きを乞うご期待…) (続き…暇なときにどうぞ) ヤレヤレようやく半分かぁ~。スタートが遅かったからなあ、などとボヤキながらも、深い山だからこそ、人一人通れる登山道 ヤレヤレようやく半分かぁ~。スタートが遅かったからなあ、などとボヤキながらも、深い山だからこそ、人一人通れる登山道以外は笹や灌木などが密生していて、入り込む隙がない。迷うことはない。その上要所要所にピンクリボンの道標がある。これがとても登山者にとって力強いガイドである。 そのうち高い木が少なくなったなぁと思い始めたのもつかの間のことで、あっという間に空が明るく開けて来た。 ここまでが限界樹林帯だ。 樹高が低くなってハイマツや笹や灌木類をかき分けて標高1337㍍の見晴らしのよいコケ平(横岳)が突然のようにあらわれた。和賀川の渡渉点の河原を除いて初めての広々とした空間に戸惑いさえ感じた。迷うとしたらここだ! こけ平の頂上の広い所に来たら道や植物の生えていない石ころばかりの小さな砂利場が沢山ある。2年前に来たときは濃霧の中、道しるべは登りきったところの山頂を示す木製の杭と10~20㎝の石ころに赤ペンキが塗ってあるだけだったのだが、今度はさらにピンクのビニールヒモも結んであり、とても分かり易い。 16:17だ。 地表30㎝ばかりの所を地べたを這うようにへばりついているのがハイマツだ。その姿からどんな圧雪にも、着氷にも、どんな風にも耐えてきてその名の由来にもなったであろう姿がある。 日の光が真横からさしてきた。オウ!夕陽がだいぶ山の端に近づいている。 初夏なら高山植物が咲き乱れ、こけ類も多いこけ平だが晩秋には緑のハイマツと夕陽に染まり海老色に輝く草紅葉だけだ。 何もいらない。 遮るものなき、ぐるりの景色。他に何が必要というのか! ここまで殆ど休憩もとらずに、はたまた広い眺望もなく、ただひたすらブナの樹林のなかを同行二人でヘトヘトになりながらようやく辿り着いた身としては和賀岳山頂を望み、ぐるりと見渡せるこの景色が何よりのご馳走であった。日はもうすぐ沈む。 和賀岳山頂までもう少し。 日没とオレの頂上到達とどちらが早いか一瞬行くか止めるか迷うが、行く方に賭ける。コンパクトカメラだけ持ってザックを道に置いて僕は幾らか下りになっている尾根道を走った。両側から伸びる草で道は見えなくなっているが、それでもそれらしき所を辿って走る。 緩い下り坂はいつしか緩い上り坂に変わって息が苦しくなってくる。 16:39 山頂直前で雲海の上に鳥海山が顔をだした。 風は殆ど無風状態で雲は下に沈殿したように全く水平に棚引いていて、あたかも雲海の海であり、顔をだした鳥海山はそこに浮かんだ島のようだ。 すかさず写真を2~3枚撮る。 夕陽はまだ沈んではいない。間に合いそうだ。 顔の左側に水平な夕陽の光線を受けながら、登る、登る、ただひたすら登る。 昔の人はこけ平から和賀岳山頂にかけて咲く色とりどりの初夏の花々を見て、こんなところを極楽浄土と呼び、和賀岳を阿弥陀岳と名付けたのかもしれないと 「写真集 和賀岳の四季」を小野寺 聡氏と共同で著した高橋 喜平氏は書いている。 16:40 和賀岳山頂に漸く到着。 山頂の向こうに殆ど平らな稜線に続いて薬師岳がはっきりと見える。この薬師岳はさらに岩手側に真昼岳と続き、秋田県側には真木渓谷の甘露水登山口に通じる。 先述の写真集によればこの和賀岳山頂から駒ヶ岳、岩手山、森吉山が北に続く和賀山塊の彼方に見え、西に田沢湖、横手盆地、日本海、鳥海山、真昼岳、焼石連峰、沢内村の集落が見えるというが、私にはひときわ高い鳥海山しか判らなかった。それに夕陽は雲海の向こうの一直線線の茜色の水平線に沈もうとしており、明るさが足りなくなっていた。 360度の夕陽に沈む一大パノラマの中心で愛を叫ぶ… 山が好きだー!!海も好きだー!!空はもっと好きだー!! 最後に自然環境保全地域の案内板を見ていたとき、今まであたっていた陽の光があっという間に上の方に登っていった。 16:47 鳥海山が島のシルエットをクッキリ残し、和賀岳の夕陽は完全に沈んだ。 「東北百名山」によれば、高下登山口から和賀岳山頂までの所要時間は休憩を含まないで3時間45分だが、私は休憩を入れて4時間40分かかったことになる。 1時間に10分休憩をとったとして3時間45分プラス30分で4時間15分。と言うことはオレは25分遅れただけだ。 だがこけ平から山頂までの所要時間が35分なのに対して私は23分で登っている。 さあ!陽が沈んだ今となっては一刻も早く下山しなければならない。 私は走った。 帰りの道はローザが先頭に立った。僕が走ったのに気づいてローザも走った。道は猫じゃらしの葉っぱのような植物に覆われてわかりにくい。足で探れば分かるような道なので、ローザの先導は実に助かった。 オウ!それでこそ我が相棒だゾ~と声をかけながら走った。 だんだん暗くなってくる。 そうだ!ヘッドランプをザックに忘れて来た!なんとか目が利く内にザックに辿り着かないと大変だ!走れ!走れ!コータロー!草を掻き分けて突っ走れ!なんでもかんでも突っ走れー!走れ!走れ!走れ!走れ!コータロー…てなわけで走って無事ザックの所にたどり着いた。急いでヘッドランプをザックのポケットから取り出し、頭に直接着けてから帽子を被った。こうしないと帽子のつばが邪魔をして足元を照らしてくれないのだ。再びザックを背に、今度は歩き出す。背中の水嚢に繋がるチューブを口に含みチューチュー水を吸い出して喉を潤す。もう一口、今度は口いっぱいにアクエリアスを薄めにいれてある水を含み、ローザに口移しで飲ませる。無駄にはできない。 雲海の向こうは茜色の線に染まり、最後の光を放つ。美しい。とは言え足元はもうだいぶ暗い。空には雲一つなく月は煌々と冷たい光を放つ。静かだ。 いつもではないが今日の山の神様はすこぶる機嫌がいいようだ。 たいして不安は感じなかった。 ローザがいるのが本当に心強い。 孤独にならずにすむ。クマが近づいたら吠えてくれるだろう。第一、クマが犬の匂いや気配に感づいたら、近づかないだろう。もしも、遭難して山の中で一夜を過ごさなければならないときは、ローザと抱き合って寝れば大丈夫だ。ローザが助けてくれる。お前は10年前の6月11日19:20初産のラブからオレがとりあげてやったんだゾ~。仮死状態で生まれてきたお前の羊膜を破り、へその緒を絹糸で縛りハサミで切った。仮死状態だったお前の鼻をオレの口で吸って羊水を吸い出し、さらに息を吹き込んで蘇生させたんだから、その時からオレとお前はただならぬ関係で、運命の赤い糸で結ばれてたんだからなぁ~!体重は445㌘で長女だった。 二番目はなかなか生まれず難産だった。産道に入り外に出てこれなかった2番目は窒息死して残念にも死産でこの世の空気に触れることになってしまった。可愛そうなことをしてしまった。21:40 400㌘の♀だった。新米ママのラブは苦しそうだった。又、人の手を借りなければお産ができなかった。 その5分後の21:45に三番目は待っていたかのように生まれてきた。♀450㌘で2ヶ月後私の生まれ故郷の本吉町の家族に飼われることになったクーだ。もし、最初から一頭家で飼うことに決まっていたならこの犬を選んでいたろう。それほど毛の色も気に入っていた子犬だった。 子犬達は私がとりあげ、妻の義子と末の娘の明子がぬるま湯で産湯を使わせ、体を拭いて、白熱灯の暖房の下に寝かせた。生まれたばかりの子犬は体温調節ができない。 四番目は30分後の22:15。♀ 270㌘。 五番目は1時間15分後の23:30。♂ 380㌘。この子犬は息子の大学の時の友人一家に引き取られて静岡の三島市に行ったバロンだ。この犬も毛の色のキレイなイヌだった。 六番目は6月12日 00:20に生まれた最もビッグサイズな♂520㌘。この子犬は市内九条の人に飼われることになったアルフだ。この子はとても度胸のある子犬だった。 七番目は00:30♀。290㌘だった。八番目は00:50♂ 475㌘…この子も死産だった。 合計8頭を出産した母犬のラブは疲労困憊していたが子犬達に初乳を与えた。子犬達は10個ある乳首のどれかに本能的に食らいついた。 この年、梅雨入り前はものすごく暑く、暑さに弱いゴールデンレトリーバーの ラブを如何に涼しくするかだけを考えていた私たちに思いもよらぬ落とし穴が待っていた。 その翌日の朝5時頃に目が覚めた私は心配になって見に行くとラブは産室の外に出て眠っており、子犬達は身を寄せ合ってかたまっていたが、4頭しかいない!?一瞬パニックになりキツネにつままれたような気持ちであった。探したら2頭がバラバラに産室の隅っこで冷たくなっていた。夕べは急に冷え込んで、一番小さく体力のない2頭だけが身を寄せ合った4頭の塊を探しきれず凍え死んだのだ。 涼しかろうと思って産室を陽影に作ったことが徒となったことに気づきすぐに2坪のサンルームの端に場所を移し、夜はサンルームの内側にある居間に家族が交代で寝ることにした。これは一週間ほど続けた。 生き残った4頭はそれぞれ性格も、体格も、毛の色もちがった。まさか家でローザを飼うことになるとは思わなかったので、気に入った犬から人に薦めて最後に残ったのがローザだった。ローザは臆病で、毛の色も一番私の気に入らない犬だった。ローザは言わば売れ残りだった。私にとって美犬ではなかった。売れ残って生後5ヶ月くらいのある日の朝、妻が餌をやろうと犬小屋に入ったら、尻尾を振って嬉しそうに近づいて来た母犬のラブが突然、前足から膝が崩折れるように倒れた。ビックリした妻はラブ!ラブ!と叫び、揺り起こしたが、意識は全くなかった。慌てて妻は私を起こしにきた。その日に限って私が寝坊したからだ。前の晩大阪の友人H氏から頂いてきた「犬を飼う」( 小学館漫画賞受賞作品 谷口ジロー著)を読んで涙して朝3時頃まで起きていたからだ。急いで犬猫病院に電話して連れていった。 自発呼吸ができなくなり、人工呼吸器をつけられ入院となったが意識が戻らないまま昼過ぎに旅立った。 思えば、ラブは飼い続けることのできなくなった仙台の人の元から数人の人を介して無関係の私の元にきたのだった。 来たときは糞まみれだった。夏だった。風呂場に連れて行って、こっちも素っ裸になって2時間かけて全身くま無くシャンプーしリンスしてから乾かした。それから私とラブの信頼関係は分かちがたいものとなった。初めての大型犬であり、洋犬のゴールデンレトリーバーなので本を何冊も買い込んで勉強していた。勉強するには訳があった。ラブは我が家の2代目の犬で、初めて我が家の飼い犬になったのは黒の柴犬だった。この頃私は犬について全く無知だったためヒィラリアもタマネギなどねぎ類をたべさせてはいけないことも知らなかった。そのためリキ(南極物語を見て子供たちが名付けた)は蚊が媒介するヒィラリア線虫におかされ、12才で死なせてしまった。この反省はラブを飼ううえでの教訓になった。 話を本題に戻そう。 (ここまでで約9千字になったのでひとまず区切りとし、以降は次回に譲ります。乞うご期待!) |