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フラメンコ in 気仙沼
(篠崎 氏 寄稿)
大津波被災者支援気仙沼フラメンコ公演記

Ⅰ、気仙沼へ 4月20日(土)公演前日

 

「えっ!この坂おりるの?」運転の茜谷さんが声を発する。気仙沼に入り被災した海岸線をしばらく走り、高台にある小野寺さんの自宅を目指し上ってきた車のカーナビが、左手に見える急な下り坂を最後に指示していた。
 朝7時新宿駅スバルビル脇に集合、車の四人組(茜谷、多賀名、船津、篠崎)は遠足よろしく首都高から東北道に入り、長者原SAで食事休憩し、一関から気仙沼に入っていった。那須あたりでは散り始めていた桜が東北に入ると満開になり、気仙沼では八分咲きというところか。新宿からの五百余キロを思わぬ花見を楽しみながら北上した。

 急な坂を少し下ったとき、多賀名さんが「ここ、ここ」と、大きな欅とヒバの木2本が入口にある小野寺さんの家に到着、庭には黄水仙が咲き乱れていた。車をバックで突っ込むと小野寺さんがニコニコしながら玄関から、先に着いていたゆう子さんも出てきた。玄関先で今回のポスターがちょっと話題に。まだ掘り炬燵と石油ストーブがついている居間に通され、奥さん(義子さん)の入れてくれた挽きたてのコーヒーをいただきながらにぎやかに談笑、庭に続くサンルームには大きな犬のローザが横たわっている。

やがて小野寺さんは臼杵さんのピックアップに向かい、戸来さんにも途中で連絡が取れた模様、その間義子さんに晶さんとの出会いなどを尋ねる。それは東京の教科書出版社の同じ職場で働いていた時のことらしい。結婚したのもその頃で小野寺さんが活動家としての後始末をしていた大変な時期のことをさらりと話す。やがて帰ってきた晶さんも照れながらもその頃のデートの合言葉などを披露する。先日大分地方でも使われていた例の合言葉、太鼓や笛や鈴よりちょっと品がよく、職場で「こんにちは」とアキラ、「こんにちは」とヨシコが返せばその日のデートはOK、ほかの言葉ではNG。(えっつ、こんにちはの返事に他の言葉なんかあるの?ずるくない!とやっかみ。)その内、缶ビール片手に大島あたりをさまよっていた梅木さん(星川さんの奥さんのお姉さんと一緒)がタクシーで到着、これで寮関係者は全員集合した。

 おしゃべりしながら明日のプログラムの三つ折りなどを手伝ったが、最後に舞台の主役の二人が明日のプログラムの中に“みんなでセビジャーナス”という観客参加型の踊りがあり、それを今から全員で練習するという。聞いてねーよと、とても言えず全員で奥の部屋に移動した。小野寺家には趣味の卓球が出来るほどの広さの板張りの部屋があり、お店で不要になった縦2Mはある短冊型のカガミが張り巡らされ、まさにダンススタジオだ。はしゃぐ人、鈍い人、ヤル気いまいちな人、独りよがりな先生が入り乱れ、楽しそうだが大変な騒ぎ、成果確認不足のまま終了した。さあ!飲み会だ。車2台に分乗し、近くの居酒屋ブランチへ、洒落たレストラン風なお店。

 到着すると大鉢で二つ、おいしそうな刺身が用意されており、事前レッスンで体を動かしたせいかビールやワインと共に売れ行きがいい。私の右手の欠食児童グループの大鉢は直ぐ空に、左の大人グループは余っており、気をきかせて直に大鉢ごと交換する。その後も出てくる料理飲み物によく手が伸び、寮生活のコンパそのままに盛り上がった。やがて代行でビジネスホテル“とみや”へ移動するが、ここでちょっとした事件が。フロントで部屋のカギはまとめて舞踏家ゆう子さんとマジシャン戸来さんに渡され、そこから各自に配布されたが211号室のカギがない。フロントの老夫婦は酔っ払い集団を疑い、酔っぱらいは偏屈な宿屋の主人を疑うが、ひとまず合鍵で入室。211号室の割り付けは立場の弱い年少者(私)へ。翌朝マジシャンは昨夜の種明かしをしてくれたそうだ。カギはオモムロにマジシャンのポケットから、やってくれるねえ~。葉山の靴、とみやのカギ、2度あることは、、、次にご期待。

Ⅱ、公演当日 4月21日(日)


朝起きて“とみや”の駐車場を眺めると、冷たい小雨が降っていた。9時集合の松岩公民館の体育館へ行っても小降りだが凍るような雨が降っている。天気予報では午後には回復する情報もあったが、今日の客入りはと心配になる。会場作りの合間控室から外を見るとみぞれになり、会場作りが一段落する頃、眼下の墓地は大粒の淡雪でかすんでいた。しばらくすると又雨になり、開演1時間前には続々と人々が雨の中詰めかけ始めていた。
熱演は4時過ぎに終了、雨は上がっており会場の片付けが終わった5時過ぎに外に出てみると、きれいな夕日が西の山裾に沈んで行っている。あたかも今日のイベントの舞台回しの背景を演出するように、きょう一日の天気は静かにも華やかに変化した。

① 小雨 / とみやの朝
朝食別宿泊なので各自調達し、8時45分集合、鍵の件でちょっと玄関先で盛り上がり、小雨の中を出発する。松岩公民館には立派な体育館が併設されている。公民館での公演ということなので勝手に自宅の近くの小さなそれをイメージしていたが、ステージは垂直に折りたたまれており、ボタン一つで水平にセッティングされ、結果的には400名を超える人員を楽に収容できる規模だった。ステージを背に後ろの窓から見下ろすと、左手の丘に大きな墓地が広がっている。少なからず新しい墓石が散見される。ここは気仙沼なのだ。

② みぞれ / 会場作り
小野寺さんの卓球関係者や友人や地元の実行委員の方々が大勢会場作りに参加されている。フロアーには30メートル余りのゴムマットが次々敷かれ、その上に舞台前にはカーペット後半にはイス席が設けられた。ステージにはコンパネが敷き詰められ、マントンが吊るされ背景を飾る。音響設備がセッティングされ、壁には船津さんが伊豆の書道家から託され持ち込んだ「希望」という墨書が飾られ会場を引き締める。大型ジェットヒータが左右二基設置され稼働を始め、窓外はみぞれから雪に変わる。



③ 春の雪 / もうすぐ公演
なかには五百円玉ほどの大きさがあろうかという淡雪が、ふんわりと大量に落ちてくる。会場では音響のテストが始まり、ステージではリハーサルも始まった。たった一本のフラメンコギターの乾いた音と音量が会場を支配する。私服で会場作りに携わっていた踊り手さんがフラメンコのあでやかな衣装に着替え、メイクを施し変身する。実行委員の人も作業の手を止め「えっつ、あの人」とか言って踊り子さんの後ろ姿を目で追っている。カンテの声、コンパネをける靴の音、切れ切れに持ち込まれた音が全くこの地にはなかったスペインの空気を醸成していく。地元の誰かが言っていた。「フラメンコもフラダンスも区別つかないのが見に来るんだからな!」いやあっつ、どんな反応が起きるのか面白い楽しみだ。
控室で昼食を取りしばしの休息、おにぎり・サンドイッチ・海苔巻・手作りの漬物・温かいお茶を飲み、弱まってきている雪景色を眺める。リハーサルや会場整備は断続的に再開され、気の早いお客がちらほらやってくる。外は雨に戻ったようだ。

④ 雨再び /公演開始
45台収容できる公民館前の駐車場が瞬く間に埋まっていく、駐車場案内係の戸来さんと私はトランシーバ片手に第2駐車場へ移動するが、そこも次々埋まっていき第3駐車場へ引き継ぎ、雨の中会場へ戻った。会場には人があふれている、急遽椅子を?き集め並べていくがこれも次々埋まる。マスコミも
毎日新聞と地元紙が取材に来ている。二十分も時間前だが会場の熱気に押され、パリッとしたジャケット姿の総合司会小野寺さんが登場し、今回の経過と立ち上げた思い、ボランティア、実行委員会に集まった人達の活動を報告していく。やがて東日本・大津波被災者支援「フラメンコin気仙沼」の開会宣言、大きな拍手、本当に誇らしげだ。そんなアキラチャンをうれしそうに入口脇でヨシコチャンが見上げている。
*** ごゆっくりご覧ください!22枚あります   リハーサル中
開会 !   寮生応援団と   はじめから繰り返します→

マウスポインタ(スマホ・タブレットは指タップ)で 止めて ごゆっくりご覧ください!

ここでフラメンコ司会の多賀名さん登場、落ち着いた柔らかい口調は会場を魅了し、フラメンコは始まった。前半は1セビジャーナス、2タンゴデマラガ、3アレグリアス、4やってみよう!ルンバでちょこっとフラメンコ、5コーヒールンバ、ここまでは関東から駆けつけた踊り手を中心に華やかに。もちろん朱雀井さん、多賀名さん大活躍。来客には年配者も多いのだが何の何のノリノリ(オトコはだめシャイシャイ)。舞台からの呼びかけで手拍子したり、オーレと声を張り上げたり、『ドアノブまわしてはいブドウを摘んで』とフラメンコ特有の柔らかい手首の動きを一緒に上手に追う。4、やってみよう!では子供も女性の大人も舞台に上がり上手に踊る。我が代表は臼杵さんと茜谷さん、二人羽織みたいに前後に並び上手上手オーレ!


後半は6サパテアード、7ファンダンゴデウエルバ、8セビジャーナス、9ブレリアス、10アミマネラ、11みんなでセビジャーナス。ここからは災害で休止中の地元斉藤フラメンコ教室の方々が大船渡・気仙沼から集まり熱演する。大津波で教室も流され舞台に上がるまでは様々な葛藤があったそうだが、会場一体となった熱気の中、斉藤先生は予定になかったソロまで踊ってくれました。感激祈再開。

 後半の後半は関東、地元一体となり踊っていく。朱雀井さんと多賀名さんが向かい合って踊っているがなんか楽しそう、二人同窓会みたいな雰囲気。勝手に書かせてもらうと『ユウコサン、コシダイジョブ、ウーン、カズエ、カズエ、オワッタラビールノモゥ!』。四時も過ぎ司会者前のめりに終わろうとするが、観客は許さない、アンコールのカンテとギター演奏、それに全員の踊りで締めてすべては終わった。観に来た人、踊った人、歌った人、裏方務めた人、みんなお互いに元気をもらい終了した。

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* 容量の関係で画質を落としています。不鮮明さをご了承ください。
尚、、ブラウザ等(スマホ・タブレット)によっては反映されない場合があります。 m(._.)m
 
 
⑤ 夕日 / 後片付けと別れ
ゴムシート巻き取り競争などしながら、みんなでワイワイ5時までに急いで片付ける。一泊組の戸来さん、臼杵さん、梅木さん、星川さん妻姉を送り出す。雨はすっかり上がった。西の空には夕日が輝いている。
??? ごゆっくりご覧ください!
・・・戻りますよ!


⑥ 夜の灯り /(あさひ鮨とカラオケ)
打ち上げはフカヒレ鮨のおいしい復興商店街のあさひ鮨へ。宿泊組が駆けつけると地元組はカウンターを占拠して待っている。急いでイス席を埋め乾杯。おいしい鮨や料理を肴にグビグビとお酒が進む、今日一日の作業で顔見知りになった方も多数おり、漁労長、サキちゃん、ガンちゃん、ヤコちゃん、キョウコちゃん等々、名前は良く覚えられないけど飲むほどに仲良しに。店内は貸切状態になり大盛りあがり、鮨屋の主人もびっくり。
次はカラオケに移動、広い部屋に十数人。歌姫メグさんとデュエットした果報者もいたとか、強力サキちゃんにアップアップしてたとか。アキラチャンとヨシコチャンはダンス、ダンス、ダンス。酔っ払ってよく覚えていないけど楽しい歌の晩でした。


Ⅲ、ホテル望洋  4月22日(月)
昨夜のカラオケの名残かガラガラ声のまま朝湯につかる。6人一緒に朝食を取り、帰り支度をする。すでにゆう子さんの若い踊り仲間はボランティアへ出かけた。小野寺さんとロビーへ降りると一人の老婦人が「アキラちゃん久しぶり」とニコニコ話しかけてきた。聞けば小野寺さんのお母さんのお姉さんの子供つまりいとこだそうだ。83歳ここのホテルの社長のお母さんでもある。「アキラちゃんのお父さんは背が高くてかっこよかったし、お母さんも美人だったんだから」と懐かしそう。小野寺さんがフラメンコの映像を見せると「すごいね、すごいね」と喜んでいた。


「フラメンコ司会の多賀名さん」 YouTubeへUP中 or 前文へ戻る

 ”Windows7 Live ムーヒ゛ーメーカー”で作成し、 YouTubeへUP中 です。 「BGM タンゴ 曲が なくて m(._.)m」



ホテル望洋 / 被災地の話
しばらくするとその社長さんがやってきて小野寺さんと名刺を交換し、挨拶を交わすがロビー左に貼ってある自分で撮った写真を前にして地震当時の説明を始めてくれた。地震直後気仙沼湾の海水が一斉に引き、これはやばいとお母さんを探しにホテル下の自宅に戻ったが見当たらず、他の親族の人が避難させたかと思って引き揚げたが、会えたのは3日後だったそうです。お母さんは火事や犠牲者や自宅の流失などつらいことをたくさん目撃したのかPTSDで記憶を少なからず失っているそうです。津波で自宅を失ったためこうしてホテルの一角で社長もお茶のみ友達もいなくなったお母さんも暮らしています。
海水が引いた後真っ黒い波が押し寄せ、目の前の大きな倉庫の屋根近くまで水が上がって来たのでここではダメと裏山まで逃げたとか。その後は避難者が300人程押し寄せましたがホテルを全部解放し、受け入れたそうです。一番大変だったのはその避難者の糞尿を毎日裏山まで運び上げ処理をしたこと。従業員が浴場の水20トンを利用することに気づき運び上げもしましたが簡易トイレが来たのは一週間後でした。排水は4か所にわたって壊れ、食料も紛失し、行政は最後まで来ず、大変な思いをしたそうです。写真に戻ると目の前に大型漁船が打ち寄せ、対岸には明るいうちから火がつき、重油/ガスタンクが奥の入り江に流れ込み、下への道路には車が多数打ち上げられました。設備の損傷や避難所使用時の傷みもあり一時はホテルも閉めようかと考えましたが、こうして残っただけでもと考え直しているそうです。客室に貼ってあった“トイレの水の長押しのお願い”に「なんでなんだ」と思った昨日の態度を深く反省いたします。
昨日と打って変わった快晴の気仙沼湾の絶景にひかれ一人外に出る。震災の話を聞いた後でも目の前の風景はあくまで美しく、津波話とゴチャゴチャしながらもボーと海を眺めていたら、後頭部の方から「シノザキくーん」と声がする。見上げると5階のベランダで女性陣が写真を取り合いはしゃいでいる。現実に引き戻され「さあ帰るんだ」。
その後ホテル玄関先でフロントの方にお願いして記念写真を取り、被災地の鹿折地区に向かいました。そこは火災であらかた焼失し、あの打ち上げられた第18共徳丸330トンが今も横たわっています。車を止めて近づきましたが、スクリュウの大きさもはるかに人の背丈を超えています。保存か否かの結論が出て、撤去されるそうですが改めて津波のすごさを実感しました。その少し先に仮設商店街復幸マルシェがあり、まず昨日の斉藤先生の旦那さんの魚屋さんで買い物と昨日のお礼をしました。そのほかにお茶屋さんや干物屋さんで土産を買い集め、車に乗り込み小野寺邸下の仮設住宅へ向かいました。寄贈者に報告するため、伊豆芸術集団の絵画類を仮設集会所の中で展示し、撮影を行ったがその部屋にはすでに田口さん、小坂さんの絵画や写真も多数展示してありました。ここでボランティアと一緒に帰る朱雀井さんとお世話になった小野寺さんに挨拶して別れました。
帰りは若柳金成ICから東北道に乗りましたが『男も運転せんかい』ということで安達太良SAから蓮田SAまで運転を拝命しました。蓮田からはメインドライバーに代わり無事なぜか渋谷へ到着、本当にお疲れさまでした。
                  (終)
  

(文責 シノザキ)

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